林田プロジェクトの林田素美です。
4月24日の授業、朝9時30分から夕方4時過ぎまでの長時間、お疲れ様でした。
金曜日の授業で、土日を挟んだ月曜日のレポート提出は厳しいかと思いますが、教授は、患者講師が投げかけ皆さんが受け止めた想いを、出来るだけ早くストレートに文字にして欲しかったのだと思います。 この授業で感じたことを、時間をかけて書物やインターネットで確認したり調べたりすることが大切なのではなく、実際に患者講師と触れ合った皆さん自身が、何を想ったのかが重要なのかと思います。そして、そのことが今後の皆さんにとっての“教材”のひとつになって欲しいと願っています。
今回は、クモ膜下出血脳動脈瘤破裂とウツ症状についてお話をしましたが、他にもお伝えしたいことは沢山あります。 癌の権威というベテラン医師に、乳腺症を乳癌と誤診され危うく乳房を切除されそうになったことや、13年間寝たきりの祖母を父(医師)の指導で実験的な家庭介護をした思い出、出産12時間前まで仕事(撮影立会い)をせざるを得なかった現実、市民への医療アンケートの結果…etc これらの体験を一冊の本にまとめていますが、その中から抜粋したいくつかをご紹介いたします。お読みいただき、感想をお寄せいただけると嬉しいです。
『林田の視点』より
◆プロローグ
深夜3時。ようやく学生のレポートを読み終えた。
医師を目指す104名の医学部生のこの想いを、どう受け止め何を投げ返すべきなのか。
5年生の授業企画と患者講師を担当した私は、改めてその責任の重さを感じていた。
(中略)
●医学部生へのメッセージ
2006年4月某日。
この日、G大学では、医療情報部の教授の指導のもと、『患者が講師となり、医学部の授業を行なう』という患者の企画・講師による初めての試みがなされた。 「医療の質と安全―医師に求められるもの― 『患者さんの声を聞く』」というテーマで、3名の患者講師が自らの体験や、医療に対する想い、医学部生へ望むことなどを語り、それをもとに医学部生が話し合い、発表するというものだ。
企画のお手伝いをした私は、数ヶ月前から教授と話し合いながら授業の構成案を練った。 医師になるために勉学に励む若者達に、先生でもない人間が一体何を教えればよいのか…。 このお話を頂いた当初は教授の、「専門家でないからこそ、出来ることがあるのです」という言葉を、理解することが出来なかった。また、非常勤講師という立場を与えられたことや必修科目だということにも戸惑っていた。でも何度かお話しするうちに、教科書や講義では得られない、患者経験者の『想い』をきちんと伝えることの大きな意味を知った。 ただ単に、患者としての自分の体験談を話すのではない。医師を目指している学生達に様々なことを考える機会を提供し、学んでもらうために、患者の側としての明確なメッセージを発信する。これが今回いかに大切なことかを念頭に置いて、患者講師をしてもらう人についても教授と話した。
その結果、講師という意識を持って医学部生にメッセージを伝えることが出来る方々にお願いすることになった。息子さんから肝臓を提供してもらい肝移植手術を受けた大学教授と、妊娠で発症した中枢性尿崩壊症と闘いながら患者会活動も続けている主婦の方。 教授が考えていたあとの一人は私だった。自分が講師になることは考えていなかった私に、 「林田さんも立派な病歴の持ち主なんですよ。これまで私に話してくれたことは、医学部生にとってもプラスになるはずです」と患者講師の担当を告げた。
教授は講師に淡々と講義をして欲しいと考えていた。最初から患者の強い想いをぶつけられてしまうと、経験のない医学部生は状況が把握できなくなる、大切なことが見えなくなっては本来の目的から外れてしまう。その意図を両講師はしっかり受け止めてくれた。 講師の病気について予習をしてもらうために事前資料を作成する中、私は医学部生に、「患者講師の話は特別な例ではない、普遍的なことだ」ということを伝えたいと思った。講師の話だけでなくもっと広く、患者体験者、闘病中の患者、さらには病院に縁のない健康体の人にも、それぞれの立場で医療や医師に対する想いを聞かせてもらいたい。医学部生の教育に繋がるメッセージが欲しい。そして、それを医学部生に受け止めて欲しい。
……この想いから市民への医療アンケート作成を手がけることになり、そこからビデオ取材の話も持ち上がった。多くの人の協力で授業の様々な準備が進んだ。
(中略)
医学部生に患者の声を伝えて、授業を滞りなく終わらせるのが目的ではない。 この授業を通じて得たことを、今後携わっていくであろう医療の世界で活かして欲しい。患者と接する時に役立てて欲しい。それがきっと、双方のコミュニケーション成立の一歩なのだと思う。そしてこのことが、『患者のことを第一に考える医師になって欲しい』という教授の願いの実現に繋がれば嬉しいと思った。
4月某日午前10時から午後4時まで行なわれた医学部5年生の授業。 臨床実習が始まる前に行なうこの授業が医学部生の今後にどういう影響を与えるのだろう。
(中略)
●患者を勇気付ける医師の『言葉の医力』
開頭手術はしたが、ありがたいことに髪の毛は剃らなくてすんだ。22日間の入院の中で、検査が終了した後半からは、病院を抜け出して打合わせに行っていた。誰もまさか私が2週間前に、開頭して大きな手術をしたとは思わなかったようだ。 額の上部を横一文字に切り、皮をめくって頭部をむき出しにする。頭部に4つの穴を開け、そこから四角く骨を切りとる。そうしてから、手術が行なわれたと後で聞いた。 でも、手術のためにそんなことをした痕跡は今、私の額にはほとんど残ってない。
S病院のI先生は、私が病床で仕事をしていても咎めず、穏やかな笑顔で私を包み込んでくれた。ほとんど話さないにも拘らず、いつも私に大きな安心感を与えてくれた。 脳出血の場合、無事に手術を終えても、その後に血管攣縮が起こると大変な支障が出る。水頭症や脳梗塞の可能性もある。だが、幸いその心配もなく、足の付け根から脳内までコイル状の検査器具を入れて行なう難しい検査も2回とも無事通過。後遺症が皆無であるという結果が出て、いよいよ退院の日が決まった。
10月6日(火曜日)の夕方退院。その前に、先生と話をすることになっていた。 ドキドキしながら診察室を訪れた私に、先生はこう言った。 「帰ったらお祝いですね。でも、今夜のビールは一杯にしておいた方が良いですよ」 これを聞いた私は驚いた。そうか、お酒を飲んでも良いのだ。
「これからの季節は涼しくなるので、早朝のジョギングは控えた方が無難ですね」 早朝でなければ、ジョギングも出来るのだ。私の明日はパーッと開けた。 それでも半信半疑な顔の私の前に座っていた先生は、穏やかな笑みを浮かべて言った。 「もし、わからないことや心配なことがあったら、遠慮なく電話を下さい。せっかく退院しても、不安なことがあったら元気になれませんからね」 私は嬉しくて、なんだか泣きたくなってしまった。
入院中に医学関係の本を読んで、クモ膜下出血動脈瘤破裂の恐ろしさを知った私の心には、退院が近づくにつれ、臆病虫が顔を覗かせるようになっていた。 もう普通の生活は出来ないのかもしれない。これから先、どんな制約があるのだろう…。
だが、先生の話を聞いて一瞬にして心の中の澱が取り除かれた。 私は治った。もう、健康体なのだ。
罹った病気の大きさを知り、心が次第に元気を失っていたこの時、先生の“カンフル剤”が、私の活力を取り戻してくれたのだ。それまでは先の見えなかった灰色の未来が、I先生の言葉の医力で希望に満ちた輝かしい光を放っていた。
「あなたの頭の中は大丈夫、すっかり治りました。これは私が保障します。でも、首から下のことの責任は持てません。なぜこのようなことになったのか、もう一度自分の生活を見直して、これからは気をつけて下さい」 先生のご注意は、最後に言ったこのことだけで薬も出なかった。 また今まで通りの生活が出来る。私は有頂天になっていた。 だがこの時、ひとつ大きな見逃しをしていた。 「なぜこの病気になったのか…生活を見直しなさい」 この言葉を私は耳でしか聞いていなかった。心に言い聞かせていなかった。 そして数年後、私は先生の注意の意味を身をもって体験することになる。
↑『林田の視点』には、この後ウツのエピソードを書きましたが、そのことは授業で話したので略します。
(中略)
●コミュニケーションの意味
患者と医師は平等ではない。決断する権利はあっても、判断・宣告は患者には出来ない。 判断し、宣告をする側と、される側。この関係は明白だ。 患者とのコミュニケーションという言葉は様々なシーンで出てくるが、立場の違う患者と医師が理解し合うということは、簡単に出来ることではない。 同じ“言葉”で話すことは難しいと思う。でも、私はたとえ言葉は違っていても会話は出来ると思う。互いを思いやる気持ちがそこにあれば、心は通じる。 基本は、患者と医師の間に信頼が存在するか否かである。 医師に納得のいくまで説明をして欲しい患者は、実はそんなに多くないと思う。 患者は医師を信頼したい。信じてすべてを任せられる医師を望んでいる。 患者の心を開くことが、コミュニケーションの大きな鍵となるのだ。
企画・編集制作会社の経営者である私は、初めて取材に行くスタッフにこう言う。 「インタビュー相手に、はい、いいえで答えれば済むような質問はしないこと。例えば、『映画は好きですか?』と聞けば、『はい』で終わってしまう。でも、『最近見た映画は何ですか?』とか、『恋愛物、アクション、ミステリーどのジャンルが好きですか?』と聞けば、必ず、“はい、いいえ”の答えではなく、相手がその質問によって考えたことが言葉になってかえってくる。そして、それが糸口になって会話が成り立っていく。そうすると、思いかけない話を引き出すことも出来る。つまり、この人には本音で話しても大丈夫そうだと相手が思えるような“信頼関係を築く会話”をしなくてはいけない。」 何を聞くかということの前に、まずは相手の心を開くことが大切なのだ。 相手の言葉の奥にあるものが見えてくれば、それだけで互いの距離はグンと縮まる。 聞き上手で、伝え上手でなければいけないのだから大変である。
まず、患者の心を開くことが診療の基本だが、といってそのことに長時間を費やすことはできない。診察時間という限られた時間の中で、“信頼関係を築く会話”をしなくてはいけないのだ。そのためには、会話の前段階から入らなくてはならないと思う。
●心の緊張を解いて、開かせる
患者も、医師が忙しいことはわかっている。診察室で、医師と何時間も話をすることは出来ないという現実はわかっている。だからこそ、患者に『私はあなたと分かり合いたいと思っています』という気持ちを伝えることが大切なのだと思う。 『こんなに忙しいのに、先生は私の話を聞こうとしてくれている』と心を開かせることが診療の基本ではないかと思うが、そのためにはまず、患者の存在を無視しないこと。 当たり前のようだが、実際には無視されたと取られるようなことをしていることが多い。
待合室にいる患者は、多少なりとも萎縮している。 診察という『日常の自分』が通用しないシーンに登場するために出番を待っているのだ。 ようやく名前を呼ばれて診察室に入る。 だが、書類やパソコンのデータを眺めていて、すぐには患者の顔を見ない医師がいる。 普通の商談では考えられない光景だ。 入ってきた相手を認め、座った相手の目をきちんと見ながら、笑顔で挨拶をする。 これは、一般人の常識だ。 診察の用意が出来たから呼ばれたはずなのに、入室しても無視されたのではたまらない。
無視しないということは、そんなに難しいことではない。 カルテを見ていたのなら、ちょっとその作業をやめて、「申し訳ない。少しだけ待ってください」と、相手の目を見て言えばそれでいい。「イヤです」などと言う患者はまずいない。 「お待たせしました」と言われたら、もうそれだけで、患者の気持ちが和らぐ。 さらに、「熱が39度もあるのですね、さぞ、つらいでしょう」こんな言葉から始まれば、 緊張で固まっていた患者の心が一気に解ける。 そのための最初の一言は、それぞれの医師で違うだろうが、まずは、診察室に入ってくる患者を意識すること、無視しないことが大切だと思う。
●話すと伝える、聞くと理解するの違い
コミュニケーションという言葉は便利な言葉だと思う、それだけに、この言葉を連発すればなんとなく、解決したかのように思える危険な言葉でもあると思う。 コミュニケーションが大切と言われて反論する人は、まずいない。 患者とのコミュニケーションの取り方ということもよく言われると思う。 前述したように、コミュニケーションを取るためにはまず、相手を無視しない→互いを思いやる精神で接する→信頼関係を築く会話をする→心を開く と言うことが必要だと思う。 だが、肝心のコミュニケーション自体が成り立っていない場合がある。当人同士は、十分コミュニケーションしているつもりなのに、行き違いが出てくる。
医師 「この病気の場合は、〇〇〇はしてもいいけれど、△△△はしないように。わかった?」
患者 「はい、わかりました。(でも心の中では△△△はしてもいいのですね)」
そして、患者は△△△をしてしまい、医師に注意をされるとキョトンとする。
医師の方は、〇〇〇はしてもいいけれど△△△はしないようにと言った時に、
この患者さんはわかったと言ったのに、なぜ?と悩む。
「話す」と「伝える」、「聞く」と「理解する」は違うと言うことが、医師も患者もわかっていないことがある。患者が質問や反論をしないからと言って、納得しているわけではないという場合がある。「はい、わかりました」と言っていても、本当には理解していないこともあるということなのだ。
●痛さの尺度は誰が計る?
教授がある時、こんなことを話してくれた。 「医師は患者の痛みが本当にはわからないのです。だから、医師がこれまでの経験で痛みの程度を決め付けてはいけない。数値で判断できるものではない。本当に痛いから訴えているのだから、その想いを受け止めることから始めなくてはいけないのです」 授業の事前資料として市民アンケートをした際にも、『盲腸の手術をした後、本当に痛いのに、医師にそんなに痛いわけがないと怒られた』と訴える文章があった。 「手術をしたのだから多少痛いのは仕方がないでしょ。もう大人なのに、どうしてこんなこともわからないのかなあ」と、バカにしたように言われたそうだ。
患者は、具合が悪いから医師に診てもらっているのだから、多少の痛みがあるのは仕方がないとわかっている。でも、この痛みが本当に我慢しなければいけない痛みなのか、 あるいは、処置をしてもらえば軽減する痛みなのか…。それがわからないのだ。わかっているのは、痛みが治まらなくて我慢できないこと、思わずかきむしってしまうほど辛い状態だという事実なのだ。患者は確かにもう大人なのだから、なぜ、こんなに痛いのか? 医師に状況を説明してもらえば痛みを我慢することも出来る。我慢しろというのなら、医師が言う『こんな』という痛みの尺度の基準を教えて欲しい。 もし、医師にもその痛みがわからないのなら、患者の訴えにまず耳を傾けて欲しい。
(中略)
●アンケートの回答を読んで…
実際の市民の声を聞くために行なった医療アンケートの回答が数週間後、戻ってきた。 びっしりと書き込まれた文字、パソコンで打ち直して書いてくれた用紙、書ききれなくて用紙を足してあるもの…。本当に感謝しきれないほど貴重な宝物に、私は胸が熱くなった。 アンケートの内容は心のこもったものばかりで、かなり個人的な書きにくいことを実名で書いて下さっている方が何人もいた。やはり、医療現場で辛い体験をした人の回答は詳しく書いてあるものが多かったが、医師によって励まされた経験を持つ人も予想より多くいたのが救いだった。あまり暗くてひどい話ばかりを聞いて、将来の医師たちが進路を変えたくなってしまったのでは本末転倒だ。
文章による回答の根底に流れているものは一貫していた。それは、『わかって欲しい』ということだった。治して欲しいという願いは当然だが、その前にまずはコミュニケーションが出来る関係を築かないと、本当の患者の“心身状態”は伝わらない。そこから“信頼”が生まれた時、初めて―医師と患者の在るべき姿―が成り立つことを改めて認識した。 医師と心が通じた喜び、裏切られた苦しみ…様々な想いを読んで、戸惑うことも多かった。 患者の期待と現実のギャップが大きい限り、医療への不満はなくならない。医療への不満がある限り、患者と医師の溝も埋まらない。 医師はその患者の症状を体感することは出来ないから、患者が抱えている痛みや苦しみを100%理解することは出来ない。 では、解決のためにはどうしたら良いのか。そもそも、それは解決出来ることなのか。
回答をまとめてみると、結果的には技術、情報、話術、心配り…すべてを網羅し、優れた人間性を持つ、オールマイティな医師であることを求める人が多い。だが、書いている人も、実際にはすべてをクリアすることは無理だと知っている。それでも医師を目指す若者に伝えたい、託したいものがあるのだと感じた。 大きな病気を抱えた患者は、目の前にいる医師に身体の痛みも心の不安もすべて、丸ごと受け止めて欲しい、今の自分をわかって欲しい。信頼して、一緒になって病気に立ち向かっていきたい…そう思っている気がした。医師にはスーパーマンであって欲しいが、そうはいかないこともわかっているのだ。その上で尚、夢を叶えて欲しい、夢に向かって一緒に最期までたたかって欲しいと願っているように思う。極論かもしれないが、患者の多くは、治療の成果ではなくプロセスに最も医療の必要性を感じているのではないかと感じた。
(中略)
●点と線の医療
「私、これまで自分の病気のことを話す機会がありませんでした。お医者さんにその時々の病状は話すことがあっても、こんな風に何時間もかけて、林田さんと一緒に自分の病気人生を辿ることが出来て感謝しています。私、結構辛いことを乗り越えてきたんですね(笑)」 Nさんは晴れ晴れとした表情で言った。 「小さい時から姉の闘病生活をずっと側で見てきましたが、今日はその時々の姉の気持ちまで聞けて、良かったと思っています」と妹のSさんも言ってくれた。 患者さんにインタビューをしていた私は、ふたりの言葉を聞いて嬉しく思うのと同時に、やるせなさがこみ上げてきた。 患者はもっと話さなくてはいけない。医師はもっと聞かなくてはいけない。 患者の気持ちを押し込めてはいけない。話すことによって癒される。 でも現実はそれを許さない。これ以上、医師に要求し追い詰めてはいけない。 今、現場では様々な改革が進められている。
だが実際には、まだなかなか患者まで医療改革の成果が届いていない。病気の真っ只中にいる患者は、自分が受けている医療に対する声さえ上げていないのだ。Nさんも取材を受ける機会を得て初めて、半世紀にも及ぶ病気人生を見つめ直し、自分の想いを吐露出来たということが現実なのだ。
患者と医師の間を点で繋ぐのではなく、患者の人生に線で添う医療は考えられないか…。 診察室で向き合っている患者がこの病気になるまでのプロセスには何があるのか。一貫して患者を見守ってくれる何かがあれば、解決することもある。カルテの共有化は定着しているが、どういう治療を受けたか、どんな薬を投与されたかだけではない、もっと、日常や心の部分まで入り込んだ人生に於ける”病歴軸”が作れないか…。 話を聞くだけではなく、それを形にし役立つものに変えていくシステムは出来ないのか…。
病気の一歩手前で改善できるメタボリックシンドロームのように、ウツもどうしようもなくなるその一歩手前で防ぐ手立ては無いのだろうか…。私の心はさまざまな想いに揺れる。
(後略)
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私の想いをお読みいただき、ありがとうございました。 死の寸前までいった私だからこそ、できることは何か? 大病、誤診、ウツ、出産、介護、仕事と家庭・育児の両立…様々な体験は、私に何を示しているのか? 逡巡していた私に教授は、「これまでの体験を軸に、想っていること、感じたことを、出来るだけ詳しく書き留めなさい。いつか役に立つ時がくるでしょう」とおっしゃいました。
人生は不思議なものだと思います。 『もし、必要があってこの世に戻されたのだとしたら、どうか道を示してください』と願っていたら、医療、健康への道が次々と開けてきた後半の人生。 『健康を気遣うことは愛情、家族や職場、ひいては社会のコミュニケーション活性化にもなる』『健康寿命を延ばす主役は自分』などといった私のメッセージを取り上げてくれるメディアが出てきたり、不規則な生活習慣(ストレス、睡眠不足)が原因で大病を発症した自分が、メタボ対策の指導教材制作やセミナー、小中学生がいる家庭向けの生活習慣改善本を出版することになったり……。ありがたいことです。
59歳の今、私は“頭も心も体も健康”でいることの大切さを、出来るだけ多くの人に伝えていきたいと思っています。健康の主役は自分、脇役は家族や仲間、医療従事者はサポーターだと思っています。健康への気づきを発信することで、一人でも多くの人が、1年でも長く『健康寿命』を延ばせたら、嬉しいです。 医療従事者も市民も皆で力を合わせていければ、見えてくることがあるかと思います。
もしご要望があれば、直接お会いしてお話しすることも出来ます。
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